短編小説

霧の中でもその花は


「お風呂、沸かしてあるから先に入りなよ」
「え? あ、うん」
 話しかけると、宗一は慌ててチャットの画面をスライドさせた。そうしてすばやく電子漫画のアプリを開き、画面をスクロールしている。だがその間にも、画面上部にはチャットの相手からの通知がいくつも表示されていくのが見える。

 流石に何と書いてあるかまでは分からないが、語尾についている真っ赤なハートマークは、相手も私が近くに居ると思ってあえて使っているのだろう。
 宗一は目に見えて焦った様子でそれを画面外へはじき飛ばし、ちらりとこちらを見たので、私は洗濯物についていた毛玉を取るのに集中しているふりをしてあげた。

 残っていたお茶を一気に飲み干すと、宗一は携帯を持ったままそろそろと風呂場へ向かおうとした。
「そうだ。買い忘れがあったから、ちょっとコンビニ行ってくるけど」
 すっかり油断しきっているその横顔に話しかけると、こめかみの辺りがピクリと動いた。
「あー、じゃあタバコ買ってきて」
 こちらを見ずにそう言い残し、宗一は部屋を出ていった。内容とは裏腹に、その声はいたずらがバレそうな時の子供のようなかすかな上ずりがあったが、今ではもう少しもかわいいとは思えなかった。

 立ち上がり、当然のようにテーブルに放置されたままの皿と湯飲みを流しへ運ぶ。せっかく心を込めて作ったのに、見た目も味も、感想のひとつもなかったなと思いながら、いつもよりも丁寧にそれらを洗った。

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